Pの食卓 -24ページ目

おすすめの本『ピアニストという蛮族たち』 買いですよ!

紹介したい本があります。

著者: 中村 紘子
タイトル: ピアニストという蛮族がいる

ピアニスト、イメージでは繊細で美しく中性的な印象を抱くかもしれません。

この本の題名では『蛮族』と言ってます。

確かにある意味において蛮族説に賛成です。


名指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニについてご存知でしょうか。

変化し続ける旋律の激流ベートーベンを得意とする彼は、恐ろしく短気で激し易い。

練習中、彼は怒ると奏者にモノを投げつける。

すると奏者たちは演奏しながら、誰かがソレを拾い、隣の人へ渡し、指揮台の上に戻される。

モノが戻るとまた投げつける、といった永久機関がここにあるのです!


トスカニーニ、猛烈なのは彼だけでは無かった。

その娘ワンダも激しさにおいて、音楽の理解力において、父に勝るとも劣らずといったところであった。

ワンダの夫である天才ホロヴィッツは、この猛烈なる二人の喧騒の中、ほそぼそと生きていたらしい。

さぞ辛かっただろうと思い、同情しております。

この本を読んだ後でホロヴィッツを聞くと、

あの流れるようなピアノの音色が違って聞こえて来るかと思います。


ホロヴィッツの他にラフマニノフ(彼の手の写真付き!)ルービンシュタインなど、

ピアノ曲ファンにはたまらない一冊かと思います。

またまだその魅力を知らない人には入門書としてお勧めです!


楽器の王ピアノを意のままに弾きこなす蛮族たち。

その魅力はこの一冊にあり!

アガサクリスティ 『ビッグ4』

アガサクリスティの多様性を見せ付けられました!

王道に継ぐ王道のストーリー、正直読んでいて気持ちが良いくらいでした。

低い評価を付ける人もおられるかと思いますが、

読んでいて楽しいことは事実です。


アクション性に富んだ推理小説でした。
今までの作品の中で最もポワロが動いた作品です。

事件の内容も多様性に富むものでした。

著者: アガサ・クリスティー, 中村 妙子
タイトル: ビッグ4


奇抜なトリック、飛び散る血、薬品に爆発。
先日読んだ『象は忘れない』と全く異なるものでした。

言われるように、好みが別れる作品なのかもしれません。


緻密な推理によって動機を割り出し、犯人を特定する。
そういった推理を好む方は『ビッグ4』を高く評価しないと思います。
現に、この作品、世間での評価は芳しくないそうです。(あとがき参照)


確かにこの作品は消化不良なところがあります。
心理描写が浅く、一度読めば終わってしまう作品かもしれません。
よってアクション小説といった感は否定できません。


ですが、とても素敵な文章も見つけました。
以下ポワロのセリフを引用する形で抜き出します。


「あなたを抱きしめたり、感情をあらわに示したりしたら、
どんなに嫌がるだろうと察しがつきますから、何も言いますまい―ええ、まったく。
ただ一言、言わせてもらいたいんです。
わたしたちの今後の冒険の功績は、すべてあなたのものです。
あなたのような、いい友人を持って、わたしは本当に幸せ者です!」


自尊心の高いポワロがどのような気持ちでこのセリフを述べたかは察しがつくと思います。
『ビッグ4』では犯人の動機や心理描写に難点が見られる一方で、
アルゼンチン帰りのヘイスティングズ大尉とポワロの友情が色濃く描写されています。

ポワロとヘイスティングズのやり取りはとても魅力的です。


話の内容が一貫していないことについては、
この小説が作られた背景に多分に因ると思います。


しかし、何と言っても語りの素晴らしさは超一流。
一気に読み終えてしまうこと間違い無しでした。


次回は初めての国内ミステリ、有栖川有栖『双頭の悪魔』を読みます。

アガサクリスティ『象は忘れない』

この小説、とても素晴らしいと感じました。
ポワロシリーズなので、推理小説なのですが、
何か心を揺さぶられる感動を味わいました。


著者: アガサ クリスティー, Agatha Christie, 中村 能三
タイトル: 象は忘れない
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推理作家ミセス・オリヴァが名づけ親になったシリヤの結婚のことで、
彼女は先方の母親から奇妙な謎を押し付けられた。
十数年前のシリヤの両親の心中事件では、男が先に女を撃ったのか、
あるいはその逆だったのか?オリヴァから相談を受けたポワロは
"象のように"記憶力のよい人々を訪れて、過去の真相を探る。
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原題はElephants Can Rememberです。
西洋では象は記憶力の良い動物として考えられており、
Elephants never forget.といわれるくらいで、
作中でも、「象はひどい仕打ちをした人間に、何年も経ってから仕返しをした」
と記述があります。

今回の事件は「記憶」がキーワードとなっていきます。


"can remember" と "never forget" 、大枠にして意味は同じですが、
意味合いにおいては異なります。
読み終えて、表紙を読み返したとき、
「なるほど!」と思わず頷いてしまいました。


内容の事件はたいへん地味なものです。
奇想天外なトリックも、センセイショナルな事件性もありません。
またポワロの活動も『ABC殺人事件』や『ゴルフ場殺人事件』に比べて地味です。
しかし、その地味な活動の底には、真実を見つめさせる意思を感じる。


この小説で起こった事件の真相は如何様なものか。
畳み掛けられるように出てくる真実の欠片を集めていくうちに、
僕たちはいつしか結論に達します。
その終着点において、僕は推理を止めてしまいました。


明確となった真実の悲しさと残酷さに、心が千々に乱れる重いでした。
見た目の事件とその真相との間にある溝があまりにも深かった
読み終えた後は、人間の心を追及した数多くの文学作品同様、精神活動がありました。


小説末の解説に作家芦辺拓さんが以下のように評しています。
「この作品は作家クリスティーとあの名探偵の一つの到達点を示したものと言っていいのです。」
この一行と小説末のオリヴァの一言がよく響きあっています。


事件性やトリックではなく、人間の心の動きや葛藤に主眼をおいた作品です。
このような作品も「ネトミス」では扱っていきたいと思っています!

ミステリー研究会「ネトミス」、次回の活動

僕たち「ネトミス」の活動が決まりました。

劇を観ることです。


ただの劇ではありません。

ミステリの女王アガサクリスティの仕掛けた罠の劇です。

その名も「マウストラップ」 です。


themousetrap

-<マウストラップ>-------------------------------------------------------
窓外は雪が激しく降りしきり、 ラジオからはロンドンで起った殺人事件のニュース。
若夫婦2人が始めたその山荘には、大雪をついてやってきた5人の泊まり客、そして一人の刑事。
ロンドンの事件とこの山荘の密接な関係が解き明かされ、意外な展開に息をのむ。

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とても興味をそそられる状況だなあって思います。

ミステリ研究会「ネトミス」の会長でありながら、
「読んだミステリは5冊」という僕にとっては、非常に食欲をそそられるアラスジです。

僕とは経験が段違いな副会長Bさんの推理に期待が高まります。


演劇史から見ても、ロンドンで50年以上のロングランをとばすオバケのような劇です。

また同じ俳優が同じ役を数千回(忘れました)演じたことで、ギネスにも載っているようです。


大英博物館から歩いてすぐの St. Martin Theatre で常に公演されているようですが、

イギリスを旅行した当時、ミステリの一冊も読んでいなかった僕は気付きもしませんでした。

自分の無知を呪うばかりです。

そういえば券売所でマウストラップの名前を見た気がしてきた;

ああああ、もう一度時間が戻れば!


と、思っていたところで、日本語による日本公演です。

まさに天啓、とばかりに予約しちゃいました。

場所は三百人劇場 、舞台と客席が近いので、迫力のある舞台が期待できます!


もし「ネトミス」の活動に興味があり、ミステリならまかせて!という方がいらっしゃいましたら、

「ネトミスに参加したい」とご一報いただければ嬉しいです。
博識な方々が集まれば、品評会などにも熱が入ることだと思います!

そして無知な会長Pにミステリの道を示してくださると本当に嬉しいです。

シェイクスピア劇情報

(1)RSCがやってくる!『夏の夜の夢』
12月9日から17日にかけて、東京芸術劇場中ホールで、
ロイヤルシェイクスピアカンパニが『夏の夜の夢』を演じるようです。
演出はグレゴリードーランによるものです。
先の『オセロー』のように、明確に現代性を打ち出すかどうか、
または『終わりよければ全て良し』のように戯曲そのままの姿をさらけ出すか、
非常に興味深いものであります。
『オセロー』ではアントニーシャーという稀代のイアーゴ役が出演しており、
『終わりよければ』ではあの魅力的なジュディデンチが舞台に返り咲いたこともあり、
今回のドーランによる『夏の夜の夢』には期待が高まります。
予約は9月10日からということで忘れずにチェックしたいと思います。


(2)歌舞伎『十二夜』蜷川演出  
『十二夜』が歌舞伎で演じられます。
シェイクスピアといえば、ブランクヴァース(無韻詩)でテンポ良いセリフが気持ち良いのですが、
歌舞伎のセリフ回しとどのように合わせたのか興味深いです。
また歌舞伎特有の早変わりや回転舞台など、この劇の可能性が広がる期待もあります。
蜷川さんは前回シアタコクーンで『メディア』を演出しましたが、
そのときは例のダイナミズムで驚かされたものです。
やや、構成美の追求のためにセリフ回し等が犠牲にされた感もありましたが、
それでもあのダイナミズムには期待を持たされるものです。


(3)オックスフォード大学演劇協会(OUDS)「間違いの喜劇」
8月13日から14日の二日間、計三回公演だそうです。
場所は東京芸術劇場小ホール2です。
詳細知っておられる方いらっしゃいましたら是非教えていただきたいです。


(4)円『マクベス』
7月22日から31日にかけて、紀伊国屋ホールで『マクベス』が行われます。
有名なので割愛。


(5)東京シェイクスピア・カンパニー設立15周年記念公演『ペリクリーズ』
シェイクスピアカンパニが、9月15日から18日にかけて、シアターXで『ペリクリーズ』を上演します。
あまり有名な作品では無く、公演回数もそれほど多くはない作品なので注目しています。
ロンドンで見た子供向けの劇でも「ペリクリーズ見た人!」と役者さんが言ったとき、
誰も手を上げなかったことから、本国でもあまり上演されていないのかもしれませんね。
7月1日より予約受付のようです。


他にも天保十二年のシェイクスピア などがありますが、僕が見たいと思うのは以上です。
中でもロイヤルシェイクスピアカンパニの来日には心躍らされるものがあります。
他にもおすすめがありましたらご一報ください。

シェイクスピア ロマンス劇 『テンペスト』 メモ : 寛容の愛

『テンペスト』はプロットのほとんどがシェイクスピアの創作によるものだそうです。
そのプロットの構造は、ロマンス劇の特徴であるように、悲劇と喜劇を兼ね備えたものです。
しかし同じロマンス劇の『冬物語』は決定的違う点があります。

『冬物語』では前半が悲劇であり、後半が喜劇といったものでした。
この『テンペスト』では前半の悲劇が回想という形でしか出てきません。
よって観客は不可解な感覚に捕らわれることとなります。
悲劇ではないけれど、喜劇ともいえない、何か閉塞感を感じるのです。


この閉塞感は無人島という設定にも表れています。
プロスペロとミランダはミラノを追放された後、海で嵐にあい、この無人島へ流れつきます。
無人島には元々シコラコスという魔女と、その息子キャリバンが住んでいました。
プロスペロはミラノから持ち出した魔術の書を用いてシコラコスを倒します。
そして情けをかけ、キャリバンを愛娘ミランダと共に育てることにします。
その後10数年に渡り、この無人島へ他の船が流れ着いたという事件はありません。
没交渉という閉塞感が劇全体を支配しています。


そのような閉ざされた世界の中で、プロスペロは二人の宿敵に対して復讐を計画します。
一人は自分を追放し王位簒奪をした弟アントーニオであり、
もう一人はそれに協力したナポリ王アロンゾーです。
時節到来を待ち、プロスペロは10数年復讐の機会を待つこととなります。


10数年という時間の使い方も特殊です。
『冬物語』では、各々の登場人物たちは贖罪、奉公、秘密の保持に時間を使います。
罪無きものが二人も死んだというのに、誰一人として復讐の念に駆られることはありません。
一方『テンペスト』では、復讐に時間が使われてきました。
10数年間ナポリ王と弟が船で近くを通りかかるのを待っていたのです。

しかし、実際に二人の宿敵が島に着いてみると、どうでしょう。
プロスペロは復讐を実行するわけでもなく、二人を館へと導き入れます。
その後、宿敵二人と和解し、ナポリ王の息子とミランダを結婚させます。
10数年の月日の間にプロスペロの心の中では寛容の精神が育まれていたのです。


僕がこの劇を好きな理由はそこにあります。
どのような人間でも怒りや哀しみ憎しみといった負の感情に捕らわれることがあります。
憎しみによって復讐の炎に身を焦がされる思いは地獄の苦しみでもあります。
そのような苦しみがいつかは終わるということをこの劇は示しています。


復讐という点で有名な劇は『ハムレット』です。
『ハムレット』では復讐の地獄が描かれています。
復讐が復讐を生み、最後には全てが滅んでしまいます。
それに対して『テンペスト』は復讐の輪がプロスペロの寛容によって断ち切られます
それにより、どれだけの命が助かったのか想像すると、
とても尊敬に値できる行為だったと感じられます。


この劇の後、彼らがどのような生き方をするのかわかりません。
魔法の杖も衣も脱ぎ去り、エアリアルも開放し、
過去を全て捨て去ったプロスペロの心に残されたものは、
「神の慈悲に訴えかけることで、全ての罪は赦される」という寛容の精神だけです。


激しく燃え盛るようなクライマックスも、豪華絢爛な踊りも無く、
幻想によって全てが霧の中といった内容の劇だと思いますが、
シェイクスピアが全作品を通して描いてきた愛情というものは
もしかしたらこのような「寛容の愛」なのかもしれないと感じました。

著者: ウィリアム シェイクスピア, William Shakespeare, 松岡 和子
タイトル: テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉

アガサクリスティ『ゴルフ場殺人事件』:題名の重要性

推理小説に限らず、刑事ものの小説は、事件が起こってから小説が始まるようです。
特に殺人事件に関しては、人が殺されてから物語が回転し始めるようです。
『ゴルフ場殺人事件』は少なくともそのような出だしではありません。
ストレートな題名から想像できる単純さではありませんでした。


今回は小説の顔とも言える題名について考えて見ます。
前作の『スタイルズ荘の怪事件』'The Mysterious Affair at Styles'では、
スタイルズ荘でなにやら男女の秘密めいた事件があるのだろうと想像できます。
それが殺人事件なのか、または不義密通なのか、
読者は事件が発生するまで考えさせられます。
このように題名には書かれていないことが多いようです



今回の『ゴルフ場殺人事件』'The Murder of the Links'はどうでしょうか。
ゴルフ場という場所で殺人事件が発生する。
全て情報が与えられていて、容易に何が起こるかを知ることができそうです。
しかしこの題名には、一見全て書かれているようで、その実何も書かれておりません。
この題名はクリスティ女史の仕組んだ巧妙なトリックの一部だと思います。
僕たち読者の目を場所と事件に向けさせる罠なのです。
事件の本質である「人の心」から故意的に目をそらさせています



このように「書かれていないこと」の方が重要に思えます。
『スタイルズ荘』と『ゴルフ場』に共通して書かれていないことは、
ヘイスティングズ(語り手)以外の心の動きです。
きちんと読み、状況等から論理的に推測する必要があるようです。
ここにおもしろ味があるように思えます。



アガサクリスティの描く事件には他人との心の衝突が描かれているようです。
事件が起こった場合「誰に最も利益があるかを考えることが重要」と女史は言いました。
事件は欲が起こすもので、欲とは愛憎でありお金であるようです。
今回の『ゴルフ場殺人事件』も愛とお金が鍵となりました。



ゴルフ場という特異な環境に気を取られ、今回も僕の推理は大ハズレでした。
今回は後から新事実が明らかになっていくタイプのもので、
よほど推理小説慣れしている人、センスのある人でないと、
推論は難しいのかな、と自分の恥ずべき想像力の欠損に言い訳をしています。



残念なことに、この巻をしてしばらくヘイスティングズは南米へと渡るようです。
彼の実直さや愛に生きる生き方などはとても温かいものがありました。

ポワロの欠点を補い、魅力に艶を足す良い助手だと思っていただけに残念です。

ですが、満場一致の拍手をもって彼の幸福な門出を飾ってあげたいと思います。



次回のミステリーは『象は忘れない』 'Elephants Can Remember'

著者: アガサ クリスティー, Agatha Christie, 田村 隆一
タイトル: ゴルフ場殺人事件

シェイクスピアにおける海(1) メモ: 大自然としての海

シェイクスピア劇において海は重要な役割を担います。
当時の劇事情として、海上で嵐にあい難破する、ということは受けが良かったようです。
しかし、シェイクスピアが海を扱う場合、それは「観客の受け」を越えた意味合いを持ちます。


「母なる海」と言われるように海にはものを生み出す力があり、その波音や香りに親しみを覚えます。
一方で海の中で生きていくことのできない僕たち人間は、その破壊の力に恐れを覚えます。
生と破壊のイメージの混交、それが海なのです。


それはシェイクスピア独自の思想というわけではありません。
インドでは三柱神のシヴァはまさに生と破壊をつかさどる神として崇められています。
生きると死ぬ、生産と破壊、これらは対立事項ではなく、ある種同一視されていた感があります。
このような混交性を芝居で表現したことがシェイクスピアの特質です。
混交性については機会を改め書いてみます。


彼にとっての海は非常に深く広く色合いの豊かなものでした。
例えば『十二夜』(1599-1602)の海は双子を離れ離れにし、喜劇性に薄く影を落とす役割を持っています。
船上で同じ運命を進むと信じていた双子の兄妹が、予期せぬ嵐によって海に放り出されます。
海は二人を引き裂きます。二人の旧世界を自然が破壊するのです。
しかし、海は二人を新世界イリリアへと運びます。

二人だけで充足していた世界が、嵐による別離によって、他者へと開かれるのだと思います。
そこで二人は各々夫と妻という新しい家族を得ることになります。


悲劇では『ハムレット』(1600-01)の海が記憶に残るでしょう。
『ハムレット』では主人公であるハムレットが四幕五場から七場まで舞台上から、デンマークから去ります。
この劇は王子ハムレットの独白の多さからわかるように、彼の内面劇でもあります。
つまり『ハムレット』の題名が表すように、この芝居自体がハムレット王子でもあるのです。
その彼が舞台から物理的にいなくなるということは、通常の思考ではありえない状態です。
彼がどこに行っていたかというと、王クローディアスの奸計に乗りイギリスへ向けて死出の船旅に出ているのです。
彼が海でどのような精神活動をしてきたのか、観客の僕たちにはわかりません。
しかし、その後の彼は、選択を保留しながらも、ある方向へと吸い込まれるように直進するのです。

海が彼にとってどのような意味合いを持ったのか、興味をそそられます。


後期のロマンス四作では海の役割の重要性が増しています。
特に『テンペスト』(1611-12)は題名から既に嵐が発生しています。
『テンペスト』では劇が始まる前に一度嵐が起こっています。
ミラノ大公プロスペロは、弟アントーニオに追放され、数冊の本とまだ赤子の娘と共に小船で海に流されます。
そして海上で嵐に遭い、舞台となる魔女シコラコスの支配している無人島へと流れ着くのです。
プロスペロは、政治とお金と秩序の世界から、野生と生命と混沌の世界へと導かれるのです。
また場面と時を変え、今度はプロスペロが魔術を用いて弟を嵐にあわせるのです。
そして嵐は彼の支配する無人島へと弟を連れてきます。
その結果、嵐という破壊の力によって、娘ミランダは他の人間と出会い、


                                                  oh wonder          まあ、不思議
How many goodly creatures are there here!     こんなに素晴らしい生き物がここにもそこにも!
How beautious mankind is! O brave new world   何て美しいのでしょう人間は!ああ素晴らしい新世界
That has such people in't!               そんな人たちがいるのですもの!
(5. 1. 181-4  Cambridge版)


と歓喜の叫びを上げることとなる。
一方でプロスペロは弟との再会する。
人間の行う最も気高い行為、憎んでいた弟を許すのです。

復讐のために計画されていた嵐が、寛容と許しに繋がります。

『テンペスト』の構造はまさに嵐です。

過ぎ去ったあとに広がる雲ひとつ無い空の美しさを終幕に感じます。

大自然とそれに歯向かうことのできない人間達。

自然によってうちのめされるが、時という自然でもって傷を癒す。

強大なものを認めることにより、初めて個からの脱却を感じることができるのでしょう。

シェイクスピアの海はそのような感を観客に与えてくれます。


破壊そして再生、生命と死、秩序の異なる別世界、これらが海には溢れています。
『老人と海』『白鯨』などもこれと同じイメージに満ちています。
シェイクスピアに限らず、文学全体を通して、海というイメージは広大深淵な意味を飲み込んでいるのでしょう。

まだまだ研究不足なので、取りとめの無いメモですが、皆さんのコメント等を参考にして、回数を重ねて海に対する理解度を深めていきたいと思います。


著者: ウィリアム シェイクスピア, William Shakespeare, 松岡 和子

タイトル: テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉

著者: W. シェイクスピア, William Shakespeare, 松岡 和子
タイトル: シェイクスピア全集 (1) ハムレット

アガサクリスティ 『スタイルズ荘の怪事件』 感想

Mystereaders Net「ネトミス」発足のきっかけとなった一冊です。
またアガサクリスティの記念すべき処女作で、名探偵ポワロ初登場の小説でもあります。
その『スタイルズ荘の怪事件』読んで感じた事について書きます。


『スタイルズ荘の怪事件』は単なる一つの事件と考えてはいません。
これから22作続く名探偵ポワロシリーズの底を絶え間なく流れる一つの大河だと思います。
というのも、未読でわからないのですが、最終作『カーテン』と共通点があるからです。

『スタイルズ荘』と『カーテン』の舞台は同じくスタイルズ荘らしいです。
また、ポワロを除き、二つの事件に共通して関わる人物がいます。
それがヘイスティングズです。


ヘイスティングズは22作中10作しか出ていないようです。
毎回出演させなかったこと、最終巻で同じ場、同じ相棒を起用した意図は何か。
そういったことを考えてヘイスティングズを追いかけてみようと思います。
推理小説において、あまり重要な要素では無いように思えますが、僕は重要だと思います。


ポワロとヘイスティングズの関係は、ホームズとワトソンのようなものに思えました。
決定的に違うのは、ホームズとワトソンの関係がダンテの『神曲』におけるヴェルギリウスとダンテを思わせる「全知者とそれには及ばない知者」であるのに対し、ポワロとヘイスティングズの関係は共に全知者では無いところにあると思います。

二人で考えたり教義問答のような推理を交換しあったりする様子は、まるで僕たちも一緒になって考えているような錯覚さえ覚えます。
不完全ではありますが双方向性を備えた推理小説だと思います。


『スタイルズ荘』でもその特徴は発揮されています。
数点を除き、ほぼ全ての事件の要点が読者に与えられており、僕たちは犯人の行動を推測追跡することができます。
ただ、巧妙にプロット内へ隠されたり、法律といった覆いでもって容易に推測できないように加工されていま

す。
しかし、労力さえ惜しまなければ、現代は情報が溢れる時代なので、法律、薬学、心理、あらゆる情報を引き出すことができます。
それによって小説の楽しみは活字と頭の中の舞台に留まらず、実生活へと広がっていきます。


僕もいろいろ調べ、頭の中で犯行を再現し、誰が一番犯人の可能性があるかを検討してみました。
しかし見事にアガサクリスティの手の内で踊る事となってしまいました。
死後の世界で彼女が見ていたら、とても楽しんでくれたのではないかと思います。

機会があれば会員の推理ログをMystereaders Net「ネトミス」で公開し、笑ってもらいたいと思います。
閉ざされた空間である内輪の殺人事件に、颯爽と風が通り抜けたような推理、人間に対する素朴な愛情、とても爽やかな読み心地でした。

次は『ゴルフ場殺人事件』を読んでみたいと思います。


アガサ クリスティー, Agatha Christie, 矢沢 聖子
スタイルズ荘の怪事件

シェイクスピア喜劇 『十二夜』 におけるサーアンドリューの役割: 純粋さと滑稽

シェイクスピアの『十二夜』という喜劇をご存知でしょうか。

オーシーノ公爵の治めるイリリアを舞台に、三組の男女による結婚を巡る喜劇です。

その他にも、海と難破、異装 (男装や変装)、時、といった重要な要素もありますが、

ここでは純粋さと滑稽について扱います。


『十二夜』では様々な道化や道化役が出てきます。

Feste (道化フェステ)、Fabian (道化ファビアン)、Sir Toby (飲んだくれ騎士サートウビー)などなど。

彼らの中で最も 'おいしい役' と言われているのがサートウビーです

彼は、Henry IV の騎士Falstaff に似ており、俳優さんも演じたい役の一つと思っているようです。

サートウビーは自由闊達に動き回り、秩序も何もなく、何でもかんでもお酒と一緒に飲み下す能力があります。

そのような彼の特質はまさにフォルスタッフと通じるものがあります。

彼とイリリアの貴婦人オリヴィアの侍女である Maria (マライア)とのwit combats(ユーモラスな言い合い:喜劇では結婚の決め手になることが多い c.f. Taming of the Shrew)は耳を楽しませてくれます。


しかし、彼がいかに自由に振舞おうと、この劇を喜劇または笑劇にすることは難しい。

というのは『十二夜』は悲劇的な調子が一幕にあるからだ。

報われない恋に悩むオーシーノ公爵、難破により双子の兄を失ったヴァイオラ、(双子の妹ヴァイオラを失ったセバスチャン)、父と兄を亡くしたオリヴィア、この三つ(四つ)の哀しみは喜劇にふさわしくないものです。

特にオリヴィアの父と兄の『死』は喜劇にふさわしくないのです(c.f. Much Ado about Nothing)。

サートウビーだけでは喜劇の方向へ進路を向けることは難しい。


そこで出てくるのがSir Andrew Aguecheek (サーアンドリューエイギュチーク)です。

見る人が見ると笑ってしまう名前だ。(Ague 悪寒でぶるぶる震える、cheeck は頬の意味)

(ちなみに Sir Toby Belch の Belch は 'おこり' の意味)

その名前が示すとおり、サーアンドリューは情けない姿、一種の道化として描かれている。

 ・彼は父の遺産を若くして相続し、年収3000ダカットという莫大な収入を持っている。だけど飲んでしまい、次の年までお金が持たない。

 ・けんか早いが臆病で、「臆病だから命が持っている (けんかできないから) 」とマライアに言われる始末。

 ・ほとんど何も知らず、ウィットも無く、とんちんかんなことばかり言ってしまう。

 ・ものを知らないため、人に言われたことを疑わずに信じてしまう。

このように立派とはかけ離れた騎士がサーアンドリューです。

彼が出てくると、サートウビーのからかいもあって、喜劇または笑劇的な雰囲気が漂いはじめる。


サーアンドリューの役割は軽いものかというと、実はそうではないようです。

確かに彼の舞台上での機能はある種の道化です。

しかし彼の本来の役割は 「オリヴィアに対する求婚者でオーシーノ公爵のライヴァル」 なのです。

オーシーノ公爵のライヴァルとして全く機能していないが、それでも二人は並列に見ることができる。

サーアンドリューとオーシーノ公爵を並ばせるものは純粋さです。


純粋さというものは滑稽にみえる。

サートウビーの言うことを全て信じてしまうサーアンドリューは滑稽と映る。

つまり彼のおもしろさは純粋なところにあると言えます。

一方オーシーノ公爵はどうかというと、やはり彼も純粋なところがおかしい。

オーシーノ公爵は、何度つっかえされても、オリヴィアに愛の使者を送り続けます。

彼の時代遅れな (Oliviaの感性から行けば時代遅れ) 形式に捕らわれた愛情表現とそれに対するオリヴィアの態度は観客の笑いを引き起こす。

二人の純粋さというのは当人には悪いがとても喜劇的要素に富んでいる。

したがってサーアンドリューの存在は喜劇を支える一つの柱と言える。


サートウビーの味に隠れ気味なサーアンドリューの純粋さ。

公演されたら、おしみなく、愛情をこめ、温かな笑いを彼に送ってあげてみてください。


W. シェイクスピア, William Shakcpeare, 松岡 和子
シェイクスピア全集 (6) 十二夜